少年サッカーの指導者は何ができて何ができないのかを明確にする 詰込み指導にならないために 

サッカーに関する情報が多く流通し、学ぶ指導者が増えたことはよいことかもしれません。一方で指導者による管理・介入・強制などが多くなってきたようにも感じます。

指導者はどこまで選手に関わることができるのか、成長に寄与できるのか、という立ち位置を明確にすることが重要かもしれません。

指導者による管理・介入・制限

動機付け研究では、人は内発的に動機付けられた時に学習が促進されると考えられています。つまり、意欲であったり、自発性であったり、主体性というものを重視します。そういった態度であるからこそ、創造的で、責任感を持った行動をし、変化の持続性も高いと考えられています。

逆にそれらを阻害する要因として「管理」「強制」「介入」「競争」「評価」「監視」などの影響があると考えられています。このような影響は指導者によって作り出されやすいのではないでしょうか。

科学的な指導、論理的な指導、フリーズコーチング、シンクロコーチングなど、幾ら高度で最先端なものでも、何かを伝えようとすればするほど選手を管理し、選手の判断や選択に介入し、それを正すための強制が多くなります。

指導者が勝利至上主義になることによって、感情的なコーチングや、高圧的な態度、競争の激化、できる・できない・上手い・下手という評価基準や監視の中で選手は過ごすことになります。

そういった環境下では選手の「意欲」「自発性」「主体性」は阻害されるということを忘れてはいけません。人は「行為の主体」でありたいという「自律的な欲求」があるからです。そして、学びにおいてはそういった心理的な態度が大前提なのです。

また、そのような環境下で学んだことに持続性は期待できないことも明らかにされています。指導者が管理し、介入し、制限し、出来るようにプレーが選手の血肉になっているかどうかは全く別の話ということです。そして、競争の激化や常に評価にさらされる環境下では、バーンアウトや心理的な形成に負の影響があるとも言われています。

関係性と認識を改める

認知科学による日本古来の学び研究や教育心理学による新たな学習観の提起としては、学び手は「受動的」な存在ではなく自ら学ぶ「能動的」な存在であり、自ら知を構成することができる「有能」な存在として考えられています。

例えば、南米のストリートサッカーから多くの優秀な選手が育ったのも、指導者(大人)によって計画・管理されない遊び(自発的・主体的)の中で、創意工夫し、トライ&エラーを繰り返し、習うより慣れろ、見て学ぶ、というような形の学習の結果であり、必ずしも1~10まで教わらなければいけない訳ではないということです。選手は自ら学べるし、サッカーの知も体系化していくことができるのです。

指導者主体にならないこと

ストリートサッカーを日本にとか、教えない指導、ということではなく、どんなに素晴らしいや理論やメソッドも、指導者主体であれば選手の成長に寄与することはないのではないでしょうか。

人はどのような時に、どのように学ぶのか、その時指導者は何ができて、できないのか、まず考えるべきはこういった所で、指導者の立ち位置を決めることが先決なのです。方法論や理論はそのあとでしょう。

今回で言えば、指導においては「教え手(指導者)ー学び手(選手)」という無意識における縦の関係性の自覚や、選手が自ら学び知を構成することができる有能な存在とみなすことが、ますます熱を帯びてきた育成年代指導者が心がけるべきことの一つかもしれません。

執筆者

Football Coaching Laboratory代表 髙田有人

選手時代にはブラジルでの国際大会や、数多くの全国大会を経験。高校卒業と同時に指導者活動をスタートし、地域のジュニア年代で約10年の指導経験がある。ドイツへの短期留学やサッカーの枠を超えて、教育学、スポーツ思想・哲学、身体論など様々な分野も学び、全人格的な育成の可能性と実践、そのための指導者の養成をテーマとし活動している。

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