スポーツと教育と理不尽と 関わる大人が余裕を持つということ

スポーツとは何か?という視点でいろいろな人の意見をみていると、そこに共通するのは、「非日常的な遊び、ゲーム」ということが浮かんできます。

日常のしがらみから解放されて気晴らしを行う場とでもいいましょうか、その場は、世間一般のルールや常識から離れて、羽目を外したり、熱狂したり、夢中になったりと、過剰なエネルギーを発露する空間であるとのことでしょう。

しかし、ただエネルギーを無秩序に発散するだけであるならば、ゲームとしては成り立たちません。

ある一定の様式があることによりそのゲーム性が担保されるのであり、行き過ぎを防ぐことになります。

週末のサッカーでゲーム性を無視したラフプレーによって怪我をして日常生活がままならなくなったら、たまったものじゃありません。

日本においては、その遊びの行き過ぎを防ぐ様式として機能してきたのが、教育的意味合いであったり、~道といった人生の鍛錬機会としてのとらえ方なのではないかと感じます。

スポーツに教育的意味合いを持たせたり、その活動を通じて人間的成長を促すといった取り組みに批判はありますが、スポーツを通じて成長できることもあるわけで、一義的に非難できるものではないでしょう。

しかし、行き過ぎた教育的取り組みの弊害があちこちで出てきているのも確かであり、スポーツの持つ意味合いを考え直す時期が来ているのではないかと考えられます。

それは、スポーツの定義をしっかり定めて、それに則て全国一律に取り組んでいくべきだ、といったものではなく、各々が自分の生活の中でどのようにスポーツを位置付けていくのか、人生全体を見渡した中で考えいていくことが始まりになります。

ある人はサッカーが人生の全てかもしれない、ある人は野球と教育が一体化となった取り組みに意味を見出しているかもしれない、・・・。

そこで、前提として持っていなければならいのが、「遊びなんだから、どこか余裕を持つ」という心構えです。

人生の修行として取り組むのは大いに結構ですが、それができないから人生が終わるわけではありません。

たとえ思い通りに身体が動かなくなっても人生は続きます。

人はだれしも、年を重ね、可動域が狭くなり、力が弱まっていきます。

思い通りにスポーツに取り組めなくなるということは、病気になって歩けなくなるといった問題に比べれば大したことではないでしょう。

特に指導者と呼ばれる人たちは、この、スポーツに対する心の余裕を持つ必要があります。

自分や選手が、勝つことに熱中するあまり人生がおざなりになってしまっては元も子もありません。

教育的取り組みが自分の信条だからといって、選手の自由な発想を制限していてはプレーの成長は望めないでしょうし、自由すぎる発想はスポーツのゲーム性を壊してしまいます。

スポーツに対し、ある種冷めた目を持つことで、遊びと様式とがうまくバランスの取れた状態になるのだと考えます。

スポーツの現場において、教育的意味合いが強くなりすぎた例として、理不尽な体験をさせるということがあります。 

スポーツに理不尽は必要か?

その答えは、yesでもあるしnoであるとも言えるでしょう。

 スポーツにおける理不尽な練習に耐えることよって、社会に出たら訪れるであろう理不尽さに耐えることができる、打ち勝つことのできる精神が養われる、と聞きます。

確かに、苦しい練習を耐えることで、精神的な耐性は養われます。

しかしそれは、厳しさに耐えることのできた人間だけが生き残る淘汰の世界です。

実際の社会においては、理不尽さから逃げたり、そもそも理不尽さに出会わないように活動したりと様々な選択があり、耐えることだけを学んできた選手がいろいろな選択をできるようになるとは思えません。

耐えることで心身を消耗し壊してしまっては何の意味もないのです。

また、好きで参加しているスポーツであるのに、それを行うためには厳しい練習に耐えてその資格を得なければならないとの風潮が一部に根強く残っています。

ゲームですから、実際の試合で自分の持っている能力を存分に発揮してこそスポーツです。理不尽さに耐えて楽しむ権利を勝ち取るというのは本末転倒です。

しかし、競技としてスポーツを究めていくことを決めたのであれば、理不尽さに耐えることも必要になってきます。

ただしそれは、ゲームの中で起こるであろう理不尽さに限ります。

そして、その課題を与える指導する立場の者は覚悟を持たなければなりません。

ラグビー界の活躍された、故 平尾誠二氏はその著書「人を奮い立たせるリーダーの力」(マガジンハウス、2017)の中で、理不尽について以下のように語っています。

 “理不尽を与えること自体を目的にしてはならないということ。

  略

成長させるための手段のひとつが理不尽を経験させることであり、

理不尽を与えるのなら、絶対に成果を出させなければならい。“

 絶対に成果を出させるという覚悟と確信があってはじめて、理不尽という負荷をかけることができるのです。

スポーツとは何か、そしてスポーツにおける理不尽さについて、思うことを述べてきました。

スポーツのとらえ方を、本質という言葉で限定して狭くとらえるのではなく、いろいろな意見があるなかで余裕をもって議論していくことが、スポーツの発展につながっていくと感じます。

遊びなんだから、それに関するものすべてが、もっと自由になっていってほしいと願います。

 

執筆者
永田将行

理学療法士
NPO法人ペインヘルスケアネットワーク プロボノ
東小金井さくらクリニック
慢性痛に対する運動療法を中心に、一般の方からスポーツ選手まで幅広い方々にリハビリテーションを提供しています。

 

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