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2019.03.04

トレーニング論と稽古論(1) ―東洋と西洋の「身体観」の相違から―

スポーツ指導における体罰やハラスメント、あるいは度を越えた厳しい指導法は、近年のマスメディアでしばしば取り上げられ、社会的に注目されるようになっている。

筆者が本稿を執筆している現在も、子どもへの躾(しつけ)と称した虐待をめぐる事件が連日報道されている最中である。

大人から子どもへ、あるいは指導者から学習者への体罰やハラスメントは、なぜ無くならないのであろうか。

そこには、当事者たちの「暴力」に対する認識の相違があるように思われる。

端的に言えば、当事者たちは、暴力を暴力とは認識していない、あるいは指導の一部として正当なものと認識しているように思われる。

このような問題を取り上げる時、「昔は良かったが、今はダメな時代だ」といった言葉をよく耳にする。

いわゆる「根性論」の時代とは違う、ということなのだろうが、事はそんなに単純なのだろうか。

現代のスポーツにおいて、「根性」は非科学的で、不要なものなのだろうか。時代が変われば、指導方法も変わって当然なのだろうか。

ならば、なぜ、時代の変化と共に体罰が無くならないのであろうか。

その根底には、多様な思惑と論理が、複雑に絡まっているように思われる。

すなわち、その絡まった問題の一つひとつを紐解いていかないことには、問題の本質には辿り着けないように思われるのである。

先に、「暴力に対する認識の相違がある」と述べたが、その問題を紐解く視点として、本稿では「身体観」というテーマから考察を試みてみたい。

東洋的身体観

身体観とは、「身体に対する見方・考え方」であるが、この身体観に着目することで、複雑な思惑と論理が絡まる現在のスポーツ指導に、一つの見方を提示できるのではないかと筆者は考えている。

本稿の提示する視点が、スポーツ指導に対する批判を、単に時代の流れとして片付けてしまうこと、あるいは、結果を出した指導法が最新かつ最善であるとの安易な見方に、一石を投じることができれば幸いである。

さて、身体観から考察するにあたって、本稿では思考の枠組みを明瞭にするために、「東洋の身体観」と「西洋の身体観」という2つの軸を設けて検討を進めていきたい。

まず、東洋の身体観は、日本を含めたアジア圏、特に仏教の影響を強く受ける文化圏における身体観を指す。

仏教では、元来、「身心一元論」と呼ばれる考え方があり、その言葉が表す通り、「身と心は一つにつながっている」という思想が伝統的にある。

さらに、「身心」という表現が示す通り、身(身体)から心にアプローチすることが可能である、という考え方も内包されている。

例えば、鎌倉時代の禅僧である道元(12001253年)は、修行法として、身体を用いる坐禅を重視し、「只管打坐(読み:しかんたざ、意味:ただひたすらに坐る)」という教えを残している。

このように、身体を正すことで心も正されていく、という思想は東洋の伝統的な身体観であり、身体的な行為を通して心を磨いていく、という思想は日本の伝統的な思想なのである。

東洋の心身一元論は、日本の文化にも多大な影響を与えており、特に芸道の世界では稽古(わざの鍛錬)を通して心を磨く、という思想は今もなお息づいている。

相撲がしばしば相撲道と呼ばれ、最上位の横綱に一定の品格が求められるのも、このためである。

また、学校教育の現場では、挨拶やマナー教育、清掃活動、服装等の身だしなみが指導されているが、これは身体を正すことが心を正すことにつながっている、という考え方に由来しているからなのである。

西洋的身体観

一方、西洋では伝統的に「心身二元論」という考え方を有している。

「心身」と表現されるように、心が上位に、身体が下位に置かれ、とりわけ理性や言語によって身体は支配できるもの、と考えられている。

この心身二元論の代表としては、フランスの哲学者であり、近代哲学の祖とも呼ばれるルネ・デカルト(15961650年)が挙げられる。

彼は、「われ思う、ゆえにわれあり」という有名な言葉を遺しているが、それは「意識が存在しているからこそ、自らは存在しているのであり、身体は物質の延長である」ことを示している。

すなわち、西洋的な身体観では、理性や意識といった心の働きが重視されており、身体は心に従うもの、あるいは心(理性)によって管理されるべきもの、と考えられているのである。

今日の解剖学的な人体の見方や、理性や言語によって人間を理解しようとする西洋的な教育観の源流は、こうした身体観に由来するものと思われる。

また、スポーツの場面に則して見れば、メンタルトレーニングやウエイトトレーニングのように、人間の身体を分解し、個々の能力の向上を図ろうとする方法は、西洋的な身体観に基づくトレーニング方法と言えるであろう。

言い換えれば、(結果的に心に良い影響をもたらすことはあったとしても)身体的なトレーニングはあくまで身体的な能力の向上のために行われるのであって、それ以上の意味(心を育む等の効果)は基本的には期待されていないのである。

東洋と西洋という、2つの軸で身体観を見てみると、日本には両者の身体観が混在したままスポーツ(体育も含まれる)が行われているということが、容易に理解できるであろう。

「教育としてのスポーツ」と「競技としてのスポーツ」

「教育としてのスポーツ」は、東洋的な身体観に基づいており、一方、「競技としてのスポーツ」は、西洋的な身体観に基づいて考えられている。

日本におけるスポーツの歴史を鑑みた時、日本は明治時代以降、すなわち西欧近代の国家の形が整えられて以降、近代教育の基礎である学校を基盤としてスポーツが輸入され、普及してきた。

そのため、日本においてスポーツは、教育と密接な関係を持ったまま今日まで発展してきているのである。

その一方、近年の著しいスポーツの高度化・肥大化は、競技としてのスポーツという考え方を促進し、その結果、教育としてのスポーツという基盤の上に競技としてのスポーツが上乗せされた形となっている。

そしてその構図が、今日のスポーツ指導を巡る議論の錯綜へとつながっていると言えるであろう。

社会的な注目度の高い大会で新たな記録が出た時、しばしばその指導方法が話題になる。

時には、それが革命的なものとして賞賛されることもある。

しかし、それは本当に新しいものなのか、どのような目的に対して有効なのか、スポーツ指導者は冷静に見つめる必要があるであろう。

指導者自身のスポーツへの哲学

「身体観」という考え方は、その一助となるはずである。

かつては、日本において根性論がもてはやされ、身体を徹底的に追い込むことが美徳とされた時代もあった。

しかし、それは過ぎた時代のものではない。

身体が心を磨く、という思想は今もなお日本社会のあらゆる場面に見られているし、スポーツで努力をした経験がその後の人生に役立つこともあるであろう。

問題は、指導者や大人の側が自らの都合でそれを利用しようとした点にある、と筆者は考えている。

なぜなら、芸道論に立ち還ってみれば、身体を追い込むのは芸(わざ)を体得せんとする学習者自身であり、そしてその先には、常に芸を自らの身体で示す指導者の姿があるからである。

スポーツを通して心を育むのか、あるいは身体の機能を高めるのか、それらを判断し、選択するのは指導者の責務であり、言い換えれば指導者自身のスポーツへの哲学が問われていると言えるであろう。

 

 

【執筆者】
中澤 雄飛

帝京大学教育学部 講師

専門分野は体育・スポーツ哲学。2015年に博士(体育科学)取得。人間の「身体」を軸に教育論・スポーツ論を検討することを主な研究テーマとしている。

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