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2018.08.06

サッカーは少年を大人にし、大人を紳士にするのか スポーツ教育の可能性を探る 

わが国の学校体育の授業は、子どもたちの技能向上と仲間づくりがもっとも重視され、それ以上に教えるべき何かがあるとは考えてこなかった歴史があります。

2018年6月8日放送の「チコちゃんに叱られる!」の話で「なぜサッカーは手を使ってはダメなの?」というものがありましたが、街頭でのインタビュー、サッカー部出身のタレント、元日本代表熱血サッカー解説者、誰もまともに答えることができませんでした。

明治時代に、日本は多くのスポーツを輸入しましたが、そこで重視されたのは欧米諸国の文明技術に追いつけ追い越せの精神でした。

これが、スポーツを理解することが無視され、放置されてきた日本スポーツ史のスタートなのです。

知ること問うこと

日本で、真のサッカーファン、真のスポーツファンが育たないのは、そのことが理由の一つにあげられるでしょう。

日本では「なぜ」と問うことが非常に少なく、スポーツの普及が技能中心に行われてきました。

上意下達な「体育会系」で育った日本の風土の中では「なぜ」を問うことを学ばず、メダル獲得のために「追いつけ追い越せ」主義にとりかこまれてしまったのです。

「なぜサッカーは手を使ってはダメなの?」が今日でもまだ専門家たちの中で答えられない人がいるということは、スポーツの普及にとってとてもマイナスなことです。

「スポーツを知る」ことと「なぜ」と問うことが「スポーツを理解する」ことであり真のスポーツファンが育つということなのです。

スポーツ教育を可能にする3つのステップ

スポーツ教育を可能にするには指導者が以下の3つのプロセスを知る必要があります。

まず第1にスポーツの本質を理解すること、第2にスポーツの価値を見つめ直すこと、第3にスポーツによって優れた人格を育成する、ことです。

スポーツには物理的側面と精神的側面があります。その両面がそろわないと、スポーツは成立しません。競技力を高めるためには「精神的な強さ」も必要です。「精神的な強さ」は私たちが生きていく上で必要な最も大切な能力といえるでしょう。

では3つのプロセスについて具体的に何を考えればよいのか説明します。

<プロセス1:スポーツの本質を理解する>

スポーツとは「運動を通して競争を楽しむ真剣な遊び」です。

プレーヤーはあくまで遊びの一種だと理解した上で、一方でなによりも勝利が重要であるかのようにプレーすることが求められます。

このように、スポーツは「遊び心」と「真剣さ」の間の微妙なバランスによって成り立っています。

この2つのバランスを取ることこそ、スポーツの本質だといっても過言ではないのです。これを間違えると,「勝利至上主義」と「快楽至上主義」という2つの極論を生み出してしまいます。

勝利至上主義は「遊び心」を捨てさせ、快楽至上主義は「真剣さ」を排除します。前者には、「楽しみましょう」と、そして後者には「真剣にやりましょう」と伝えたいものです。

スポーツは遊びであり真剣なものであるという私たちの立場から見ると、この両極端の考え方は、競争の本質を誤解しているのです。

確かに、完全な勝利至上主義を前に

すると、競争がよくないと考えてしまうことも理解できます。

勝利がすべてだとしましょう。

あなたが私より優れていて負けることがわかっていたら、残念ながら私はあなたと戦いません。

なぜなら敗北には何の意味もないからです。またもし私があなたより優れていて、あなたが敗北から何も得るものがないのなら、私があなたを負かしてもそれは単なる時間の労費に過ぎません。

いずれにしても楽しくありません。

すでに述べたように、楽しくないのなら、それはすでにスポーツではないのです。

またその対極にある「楽しければいい。勝利は無意味だ」という方針で子どもを指導することは、競争に対する誠実さを欠いています。

勝とうが負けようがどっちでもいいと考えるなら、あるいは良い球を投げようが悪い球を投げようがどうでもいいなら、スポーツにどんな意味があるのでしょうか。

<プロセス2:スポーツの価値を見つめ直す>

「うちのチームの子どもたちに勝つことが何よりも大事なわけではないなどといったら、彼らは勝つために必死にプレーしなくなるだろう。私は子どもたちにはできるだけ競争心を植えつけたい。そして負けた時には、悔しい気持ちを持ってほしい。それって、やっぱり勝つことがとっても重要だってことじゃないか」こう思う方もいるでしょう。

しかし、誤解しないでください。

ゲームの中心にあるのは、参加するプレーヤーが勝とうと努力することであり、その努力がなければゲームは無意味になってしまいます。

勝つことは本当に大切です。

しかしその勝利に意味があるのは、勝利を目指して優れた競技者になろうと努力する中で、自分自身の能力を磨き、自分自身について理解できるという素晴らしい体験ができるからだ、ということを忘れてはいけないのです。

勝利至上主義の一番の問題は、スポーツを通じて体得することができる他の重要な要素を見逃してしまうことです。

それはまるで良い映画を見にいって結末だけを問題にするようなものです。

スポーツの豊かな価値について理解を深めることは「遊び心」と「真剣さ」のバランスをどのように取るかにも役立ちます。

バランスを取ることでスポーツマンシップを含む「勝利以外」の大切なものが得られ、スポーツの価値をさらに豊かにできるのです。

<プロセス3:スポーツによって優れた人格を育成する>

素晴らしい人格とはなにかといえば、それは人によってさまざまでしょう。賢明、勇気、自制心、正義、誠実、自立、謙虚、慈悲、慈愛、信頼、憐れみ、責任感・・・など、延々と挙がります。

美徳と考えられることをすべてここで挙げることはできません。

ただ、ひとつだけはっきりいえるのは、スポーツを行う上ではこうした人格的に優れていることも要求され、スポーツの場でそれが形成されるということです。

もちろんスポーツの場に限ったことではありません。

教室での学習や読書、家庭で見るテレビなど、ありとあらゆる場面が人格形成の場になりますが、なによりも「実践的」であるスポーツが格好の場となることは確かなのです。

指導する上で、忘れてはならないは、子どもたちの運動能力に注目するだけでなく、「良く生きる」上で不可欠なモラルを教えながら、人格も注目し、適切に指導しなければならないということです。

サッカーは少年を大人にし、大人を紳士にする

日本サッカーの父と称されたデトマール・クラマーさんは「サッカーは少年を大人にし、大人を紳士にする」と名言を残しています。

元日本代表監督、長沼健さんもクラマーさんの影響を受け日本サッカー協会会長時代に「サッカーを通じてジェントルマンの第一歩をスタートさせたい」とおしゃっていました。

さまざまな挫折、敗北を経験し、勇気と覚悟をもって挑戦すること。そうした困難を乗り越えたとき、人間は大きく成長します。つまり、スポーツは教育のソフトになりうるということなのです。

※こちらも合わせてご覧ください

近代スポーツの成り立ちから見るスポーツの本質
https://fcl-education.com/raising/sportsmanship/modern-sports/

執筆者
福士唯男

株式会社アスリートプランニング バルシューレ事業部統括マネージャー
一般社団法人日本スポーツマンシップ協会 理事
NPO法人バルシューレジャパン 理事

 専門競技はハンドボール。東海大学卒業後、日本ハンドボールリーグで10年間プレー。引退後、ビーチハンドボール男子日本代表監督として世界選手権に出場した。その後、小学生スポーツに携わるようになりバルシューレの普及、指導者へのスポーツマンシップの啓蒙を行っている。

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