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2018.12.25

育成年代のスポーツは遊びか、競技か、教育か スポーツと共に歩むために

スポーツは遊びである、だから楽しむべきである、という話をよく耳にする。

昨今のスポーツ指導現場における機械化・管理化に対する注意喚起的な意味合いで語られているのだろう。

遊びは様々な学者が様々に定義するが、簡単に言ってしまえば、自己目的的活動である。

自己目的的活動とは、遊ぶことそれ自体に目的があるということである。

ただし逆に言えば、遊びが何かのための手段としての活動であるならば、それは遊びではなくなるという訳だ。

よって、スポーツ=遊びならば、人格形成のためのスポーツも、自己実現のためのスポーツも、論理的にはスポーツではなくなる。

スポーツは遊びと呼べるのか

昨今のスポーツは「手段的活動」、つまり、何かのためのスポーツである。

良き人各形成のためのスポーツ。

夢を叶えるためのスポーツ。

習い事としてのスポーツ。

健康維持のためのスポーツ。

良い悪いの話ではなく、何かを目的とするということは、前望的な時間意識を作り出す。

それは「結果」に重きが置かれるということであり、結果が出ない手段・過程は価値がないものとされてしまう。

全てが目的手段連関で捉えられ、合理性・効率性・生産性の論理に支配され、今を犠牲にし未来のために生きるという意識に繋がる。

つまりは「労働的」になる訳である。

そういう意味において、昨今の育成年代における「スポーツ」は「遊び」ではなく「労働」と言えるのかもしれない。

deporatareというラテン語の語源をスポーツの本質とし、「日常生活から離れた気晴らし(遊び)」と捉える訴えかけるのは、あまりにも短絡的だ。

昨今のスポーツは日常生活にも深く浸透している。

スポーツは教育になるのか

少なからず、日本においてはスポーツが教育という文脈の上で語られることが多い。

日本にスポーツが輸入された際、教育や学校を起点として広まった歴史や、様々なメディアを通して伝達されてきた、美化された「スポーツ像」「指導者像」「選手-指導者の関係像」などもそうさせるのだろう。

だから、スポーツは良き人格を形成する、協調性が身につく、情況判断力が身に付くなど、スポーツにこのような教育的期待をかける人は多いし、アスリートには人格的に素晴らしい人物が多いと、素朴に信じられていたりもする。

だだ、そもそも何を持って人格が素晴らしいのかは置いておいたとしても、スポーツをしていなくても上記の項目に当てはまる人はいるし、逆にアスリートであってもそうでない人もいるだろう。

結局のところ「そういう人もいるし、そうでない人もいる」程度のことでしかなく、内実を問わない盲目的ともいえる「スポーツ教育」の絶対視こそが問題だと感じるのだ。

例えば、優れた人格になるためにスポーツを行っている、という選手は一人もいないだろう。

選手は楽しみたい、勝ちたい、上手くなりたい、という純粋な思いでスポーツに取り組んでいる。

大人の一方的ともいえる教育的な働きかけこそが、スポーツを窮屈でつまらなくする可能性があるということも忘れてはならない。

そして働きかけが過剰になれば、選手の自己形成空間を奪うことになり本末転倒なのである。

偶然であり、そもそもおせっかい

教育とは賭けである、というのが教育哲学の基本的な構えだ。

なぜ賭けなのか、それは教育という営みに常に不確実性が伴い偶然性に左右されるからだ。

では、なぜ不確実性や偶然性を伴うのか。

それは、教育が他者への働きかけであり、教え手の意図通りに伝わるか、そもそも伝わったか、教えた内容を組織化できるかどうかは、教え手がコントロールすることはできず、他者の側に委ねられているからだ。

指導者の頭の中にある「相手を躱すコツ」がそのまま伝わるかはわからず、選手は指導者の話を聞かないこともできるし、「わかる」を「できる」ようにするのは選手自身の問題なのだ。

そして、学び手は教え手がいなくても学ぶことができ、教えて手は学び手がいなければ教えることもできない、という非対称な関係性からも、そもそも教育とは「かなりのおせっかい」である。

もちろん、偶然だからやる意味がないということではないし、おせっかいであるから害なんだ、ということでもないが、近代的な教育観である「未熟な子供を大人が開発する」という教授学的な視点や前提、「教える-学ぶ」「教え手-学び手」という関係性は、あらゆる側面から見直されてきている。

競技スポーツは害悪か

競争の目的は勝利や成功であるが、その結果は誰にもコントロールできないため、過程は際限なく突き詰められる。

その結果として、過剰なトレーニングが身体的に、過剰な競争や評価は心的に多大なるストレスを与え、スポーツ障害、バーンアウト、偏った価値観の形成に繋がる。

そして、選手指導者問わず目的のためなら手段を択ばず、ラフプレーや審判への暴言などの勝利至上主義に陥ることもある。

本来「急がず・ゆっくり・色々と」をキーワードにしなければならない年代を「行き過ぎやり過ぎ、早過ぎ偏りすぎ」の空間に閉じ込めてしまうため、勝敗を競い合うスポーツとしての「競技スポーツ」は、育成年代においては好ましくないのではないか、という言葉もよく耳にする。

競技スポーツと教育

「アスレティシズム」という思想がある。

一般にはスポーツを通じて良き人間形成を図ろうとする教育思想であるが、スポーツを通じてどのような人間を形成しようとしたのだろうか。

それは共感・同感能力を基にした「仲間意識」と損得を超えた「内発性」をもった人間であり、それは「競争」を通じて獲得されるものだと考えられていた。

日本のスポーツ哲学者大西鉄之助も、「ルールを超えた公正さ」「協調性」「友愛」を、行動を通じて体得することをスポーツの教育的価値とし、「遊戯」としてのスポーツではなく「競技」としてのスポーツを強調した。

クーベルタンにおいても、チャンピオンスポーツを望んでいたわけではなく、競技スポーツの「道徳的価値」に重きを置いており、スポーツ史を覗けば多くの人物が「競技スポーツ」に教育的・道徳的価値を置いていたことがわかる。

なぜ、多くの偉人は「競争」に重きを置いたのか。

その意味を考えることは、決して無駄ではないように感じる。

スポーツを通して学ぶべきは大人

スポーツを通して学ぶべきは大人ではないかと思うことがある。

昨今のスポーツが抱える問題の多くは「大人」によって作り出されていると感じるからだ。

選手が暴言やラフプレーをするのであれば止めなければいけないが、一緒になって暴言を吐いている指導者がいる。

教育的効果、と称して選手の尊厳を傷つけている指導者がいる。

選手のため、プロにさせるため、と言いながら欧州最先端を振りかざし自分の欲求を満たしたいがための指導者がいる。

強いチームでなければ育たない、指導者が良くないと、全てを他の責任にしてクレームまがいのことをしたり、コロコロと移籍させたりする親もいる。

本来的に言えばスポーツは「勝ち負けを競い合うゲーム」であり、それ以上それ以下でもない。

ただ、もはやスポーツは社会領域の一つであり、様々な思惑、期待、役割などの諸関連から独立して存在しているわけではないので、それ以上にもそれ以下にでもなり得る。

だから、競技だから良い悪い、教育だから良い、勝ち負けより育成、あのチームが、あの親が、あの指導者がと、あたかも問題が外部にあるというような設定をせず、スポーツ環境はスポーツを語り、受け取り、実践する各々が作り出しているという自覚を持ち、スポーツをそれ以上それ以下にしている要因、つまり自身のスポーツに対する思考にこそ目が向けられなければならない。

そして、スポーツについて思考するということは、自分自身を知る、ということに繋がる。

そのプロセスこそが、そしてそのプロセスに居続けることこそが、指導者の学びではないかと思うし、スポーツと共に歩むためには、必要なことなのではないだろうか。

 

※こちらも合わせてご覧ください

サッカーはサッカーをしなければ上手くならない サッカーはサッカーだけをしていても上手くならない 
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「育成と勝敗のどちらが大事であるか」という二項対立の図式を超えて
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指導者が自身を育成することが育成の始まり
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執筆者

Football Coaching Laboratory代表 髙田有人

選手時代にはブラジルでの国際大会や、数多くの全国大会を経験。高校卒業と同時に指導者活動をスタートし、地域のジュニア年代で約10年の指導経験がある。ドイツへの短期留学やサッカーの枠を超えて、教育学、スポーツ思想・哲学、身体論など様々な分野も学び、全人格的な育成の可能性と実践、そのための指導者の養成をテーマとし活動している。

 

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