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2019.03.18

トレーニング論と稽古論(2) ―「教え」と「学び」に着目して

前回のエッセイ、「トレーニング論と稽古論(1)―東洋と西洋の「身体観」の相違から―」では、東洋が「身体から心へ」とアプローチを試みるのに対して、西洋では「心から身体へ」とアプローチをする文化の相違を提示した。

そして、日本のスポーツ現場では、東洋的な身体観と西洋的な身体観が混在しているがゆえに、指導をめぐる議論が錯綜し易いことを指摘したが、本稿ではその延長として、身体観の文化的な相違が指導者と学習者の関係にどのような影響を及ぼしているのかについて、言及してみたいと考えている。

芸の道と身体

まず、東洋では身体の在り様は心の在り様につながっていく、と考えられているのであるから、学習者には第一に身を正すことが求められる。

身体を意識することによって人間性が磨かれると考えるのは、スポーツをはじめ、学校、家庭教育、さらにはビジネス等、様々な場面で日常的に見られるものであり、日本の伝統的な考え方であると言えるであろう。

それは、日本の伝統文化である、芸道の稽古論に色濃く残されている。

稽古では、師匠が示すわざや〝型・形″(いずれも「かた」と読む)を、弟子が見て、自らの身体で真似(まね)をすることから始まる。

日本語の「学(まな)ぶ」の語源が、「真似(まね)ぶ」である所以である。

したがって、日本ではしばしば、「習うより慣れろ」や、「わざは見て盗め」といった指導が行われるが、これらは極めて伝統的な指導法なのである。

ではなぜ、芸道の稽古論は真似することを重視するのか。

そこには、日本文化に則した身体観が存在する。

芸道とは、その字が示す通り、「芸の道」である。

すなわち、芸(わざ)を通して人間性を磨くという思想があると共に、芸なくしては存続しえない文化なのである。

したがって、身体的なわざである芸を自らの身体で表現することができてはじめて、「できた」、あるいは「理解した」と言えるのであり、言語的な理解に止まることは何ら意味を持たないのである。

以上のことから、日本では伝統的に言語よりも身体を重視した指導がなされてきたのである。

言い換えれば、言語に頼らず、身体で学ぶことが重視されてきたのである。

言語と身体

一方、西洋では言語によって物事を証明・説明することを重視してきた伝統がある。

かつての古代ギリシアでは、闘技場における人々を「闘技者=プラクシス(practice=実践の語源)」、「観客=テオーリア(theory=理論の語源)」と呼び、プラクシスはテオーリアの下位に置かれていたという。

すなわち、西洋においては、理論が実践よりも重視されていたのであり、「ものを眺めて知る」という態度は、今日の科学的態度へとつながっているのである。

このことは、実践を重視し、自らの身体でわざを表現することが学習者の使命である日本の芸道とは異なる発想であると言えよう。

さらに、近代哲学の祖と呼ばれ、今日の解剖学的な身体観の形成に貢献したルネ・デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」という哲学的命題ですら、言語によって導き出されたと考えると、西洋において如何に言語が重要であったかを、うかがうことができよう。

権力装置という概念

デカルトの登場以降、さらには18世紀後半に始まったイギリスの産業革命以降、西洋ではより客観的に身体を捉えるようになっていく。

産業革命による近代社会への変化は、人間の労働や能力を同一の尺度に「単位」化し、「記録」し、「管理」するようになっていく。

それは、人間の身体においても同様のことが言える。

すなわち、身体の能力を、統一された単位で記録し、管理するというものである。

この身体観は、現在の近代オリンピックや当時に誕生した近代スポーツが、厳密な数字によって統制されている様を見れば、今なお継承されていることが、容易に理解できるであろう。

また、人間の身体やスポーツを見つめる社会が、常に記録に固執し、また、事ある毎に〝何らか″の能力を測定しているのもこのことに由来しているのである。

西洋近代に端を発する、(数字も含めた)言語によって身体を捉えようとする身体観は、その後、学校等の教育においても活用されることとなる。

それは特に、「管理」と「監視」に用いられる。

なぜなら、能力や成果が、客観的に測定可能かつ表記可能であると考えれば、それを第三者が管理・監視をする、あるいは管理・監視する者が意図する目的まで到達させる、ということが可能になるからである。

学校教育も、スポーツや運動指導も、良かれと思って指導をしていることが、実は「管理」と「監視」という権力装置を生み出しているかもしれないのである。

権力装置の中で、管理・監視される子どもたち、あるいは学習者たちは、本当に良い経験ができているのであろうか。

〝権力者(指導者)にとって″の、良い経験となってしまってはいないであろうか。

そもそも、指導者は、管理と監視が生み出す権力装置という構図に気付いているのであろうか。

東洋と西洋という対立を超えて

筆者は、西洋的な身体観を否定するつもりはない。

理論を重視し、言語によって客観的に能力や成果を表そうとする西洋的な(いわゆる近代的な)思想は、多くの科学的発見を生み出し、また、身体能力の飛躍的な向上に貢献してきた。

そしてその流れは、スポーツや健康のための運動、さらには医学的な分野において今後も発展し、人類に貢献していくことであろう。

しかし、それに基づくトレーニング理論や指導理論は、〝人間″の可能性を全て照らし出せているかについては、検討の余地があると言えるであろう。

例えば、スポーツの中で生じる喜びや感動、楽しさ、さらには悔しさ、といった内面の変化は、スポーツをする実践者自身が感じてこそ、意味のある経験であると言えるであろう。

すなわち、客観的な指標に基づいて開発される様々な理論は、それを用いる人間(指導者)が「学習者にとって何の意味があるのか?」という根本的な問いと常に向き合い続けてこそ、意味のある理論となっていくのである。

一方、東洋的な身体観に基づく芸道の稽古論は、現代では「わかりにくいもの」と見られがちであるが、そこには「道を歩む者」への心構えが刻まれている。

芸道の世界では、終わりが無く、学習者は生涯に渡って「求道者」として芸を磨き続けることが求められる。

学習者が自分自身で道を歩めるようにするために、師匠は「はじめから教える」のではなく、「あえて教えない」のである。

師匠に教えられない学習者は、自ら成長するために、師匠の身体を見つめ、真似をし、学んでいくのである。

したがって、芸道の稽古論は、非言語的な世界ではあるが、身体を通して「学ぶ力」を育む、という思想を有しているのである。

現代社会は、生涯スポーツ、あるいは生涯学習と呼ばれる時代であり、短期間の成果のみならず、生涯に渡って学び続けることも重要とされる時代である。

生涯に渡って学び続ける、ということを考えた時、日本古来の芸道論の思想は、一つの示唆を与えてくれるように思われる。

東洋と西洋、両方の文化が交錯する日本においては、スポーツの指導者もまた、狭小な視野にとらわれることなく、柔軟に両者の良さを活用することが重要であると思われる。

そうした時、近年よく耳にする「主体的に動くことを教える」という、矛盾したようにも見える現代的なテーゼの本質が見えてくるのではないだろうか。

※こちらも合わせてご覧ください

トレーニング論と稽古論(1) ―東洋と西洋の「身体観」の相違から―
https://fcl-education.com/raising/sportsmanship/fcl-orient/

 

【執筆者】

中澤 雄飛

帝京大学教育学部 講師

専門分野は体育・スポーツ哲学。2015年に博士(体育科学)取得。人間の「身体」を軸に教育論・スポーツ論を検討することを主な研究テーマとしている。

 

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