2019.01.28
「より強く有名なチームへ」という進路について 急がず焦らずゆっくりと
中学生になると「サッカーが面白くなくなった」といってサッカーをやめてしまう選手がいる。
もちろん「サッカーが楽しくない」のではなく「その環境でやるサッカーが楽しくない」のだ。
進路に関しては、関わる大人が知っておかなければならないことがたくさんある。
進路選びは強くて有名なチーム信仰
身の丈を超えた「より強く有名なチームへ」という進路選択が存在している。
「上を目指さなければならない、強いチームで切磋琢磨しなければ学ぶことはない、強いチームには良い指導者がいる」
などの謎の日本的スポーツ環境における「神話」に影響を受けていることに無自覚で、そもそも「なぜスポーツをするのか/させるのか」という問いすら考えたことがない大人は案外多い。
ジュニアユースの多くのクラブは、クラブ運営的な「諸事情」により大所帯になり「全国優勝」を掲げ一直進。
チーム内の競争は激化し、小学生年代にあるような良き意味での「過保護的空間」はなくなる。
型にはまったプレー、単純なハードワーク、レギュラー争いによる過度のプレッシャーや友人関係の変化、咤激励を通りこした罵詈雑言など「ギリギリそのチームに入ることができた選手」は、このような環境で過ごす可能性が高くなる。
試合に出れること、指導者に気にしてもらえること、仲間と楽しく過ごせること、サッカー自体を楽しめることなど、背伸びをして入部したチームでの活動には、これらは全く揃わない。
一番大切な「サッカーが好きである」という気持ちが、サッカーとは全く関係のない要因によって削がれてしまうのだ。
サッカーが好きでない選手は、サッカーは上手くならない。
サッカーが好きでない選手は、サッカーを続けることはできない。
今上手い選手がその先も上手い選手であるかはわからない
生物学的年齢差
という言葉をご存じだろうか。
暦年齢とは違い、身体の成熟度としての年齢であり、11歳~14歳の時にその差が最大になると考えられており、上下2~3歳ほどの開きがでることもあると言われている。
つまり、学年で言えば同じ6年生であるのにも関わらず、フィジカル的な能力においては、小学3年生~中学3年生までの幅があることになる。
中学生までは、主観で申し訳ないが、このフィジカル的な優位性で勝負ができてしまい、「使える選手」として重宝されやすい現状がある。
素質やスキルがあるのに試合に出れない、上手くできない、ということが起こりやすく、周りに劣っている意識や評価は動機の低下に繋がりやすく「サッカー嫌い」を助長する。
また、サッカー嫌いに留まらず、他者や世界に対してネガティブな価値を受け取り、あらゆることに対して否定的な感情を抱くようになってしまうことすらもあるわけだ。
弱くて有名でなくとも楽しめるチーム選び
急がば回れ。
焦りは禁物。
を一つのキーワードとする必要がある。
なぜなら、「一時的な差」はいつか埋まるからだ。
一見、「サッカー選手」として大きな差があるように見えても、その差が「フィジカル的能力」であることがある。
部活であろうと、強くない街クラブだとしても、高校から、大学から、活躍している選手はごまんといる。
逆に、小学生、中学生の頃はあんなに上手かったのに・・・、という選手もごまんといる。
サッカーは「技術のスポーツ」であり、身体的な能力差はいずれなくなるため、本来であれば気にする必要のない差ではあるが、ある年代においては顕著に差が出てしまい、試合に出れず、活躍できず、怒られ、サッカーが嫌いになってしまうことは、非常に勿体ないことなのだ。
この先もずっと「サッカーを続けていきたい」と思っているのであれば、自分が活躍できそう、楽しめそう、というチーム選びを薦める。
サッカーを続けるうえで大事なことは、まず第一にサッカーが好きでいること、怪我をしない身体でいること、調整力(スキル)を身に付けることであり、身の丈に合わないチームでは、これらを揃えることはできない。
より速く より高く より強く より上へ
というある種普遍的とも思えるスポーツ的精神は諸刃の剣で、「焦らずゆっくり色々と」がキーワードな育成年代においては、全く馴染まないと言ってよい。
「一時的な差」が生まれやすい時期に、どのような環境でサッカーをするのか、ということを指導者、親などの関わる大人は真剣に考えなければならない。
スポーツへの関わり方は一つではない
そして、誰もがプロを目指さなければいけないのだろうか。
全国大会優勝を掲げなければいけないのだろうか。
強豪チームに進むことだけが良い進路選びなのだろうか。
未だに我々のスポーツにおける思考が、勝つこと上手くなることを起点とした「競技スポーツ」という枠組みでしかなく、それは関わる大人が無批判であるからであり、無批判であるということは他者性を欠き、再生産され続けるということである。
勝敗を競い合うゲームとしてのサッカーを楽しむ
というスポーツの本来的な姿に「練習」はない。
スポーツへの関わりかたは一つではないし、強制されるべきでもないのだ。
「生へのまなざし」
サッカーを続けていくにしても、「試合にでるため」「上手くなるため」という強迫観念に駆られ、サッカー漬けの生活になってしまわないように気を付けなければならない。
また、スポーツはサッカーだけではないし、サッカーやスポーツだけが取り組まれるべき望ましいことでもない。
我が国のスポーツシーンでは「やめるは負け」「一つの事をやりぬくこと」が美徳とされるが、「子ども期」には日常生活を超えて、様々な他者、もの、こと、と「出会う」という「経験」が必要で、経験こそが学びであり「自己生成」に繋がる。
そして、興味や関心があることに取り組むことが推奨されるのは、「好きな事だけで生きていく」という自己中心的な発想ではなく、愉しみ、没入することで世界の奥行きを体感することができ、それが内的な充足に繋がるからだ。
関わる大人は、「スポーツ選手」に関わっているのではなく「一人の人間」に向き合っているという自覚を持ち、より広義に「育成」や「教育」を捉えなければならない。
「指導的まなざし」「教育的まなざし」を超え「生へのまなざし」を持って選手と接する必要があるのだ。
サッカーやスポーツだけが人生ではない
サッカーはサッカーをしなければ上手くならない。
サッカーはサッカーだけしていても上手くはならない。
ただしサッカーだけがスポーツではなく、勝つこと上手くなることだけがスポーツでもない。
そして、サッカーやスポーツは人生の一部でしかない。
スポーツ以外にも、芸術や音楽など、興味を持って取り組めることはたくさんあるはずだが、興味を持って取り組めることがないことが悪いことでもなく、夢を持っていること、目標に向かって強く前進し続けていることだけが素晴らしい訳でもない。
本来的には正解などなく、比較せず、ありのまま歩んでいけばいいだけなのである。
※こちらも合わせてご覧ください
サッカーはサッカーをしなければ上手くならない サッカーはサッカーだけをしていても上手くならない
https://fcl-education.com/raising/sportsmanship/soccer-sports/
育成年代のスポーツは遊びか、競技か、教育か スポーツと共に歩むために
https://fcl-education.com/raising/sportsmanship/sports-competition-play-education/
執筆者
Football Coaching Laboratory代表 髙田有人
選手時代にはブラジルでの国際大会や、数多くの全国大会を経験。高校卒業と同時に指導者活動をスタートし、地域のジュニア年代で約10年の指導経験がある。ドイツへの短期留学やサッカーの枠を超えて、教育学、スポーツ思想・哲学、身体論など様々な分野も学び、全人格的な育成の可能性と実践、そのための指導者の養成をテーマとし活動している。