2019.03.11
サッカーは楽しい、素晴らしい そう言えるための大人の学び
サッカーの楽しさとは何だろうか、とふと考えることがある。
試合に勝つこと、上手くなること。
であろうか。
では、サッカーの素晴らしさとは何だろうか。
協調性が身につく、判断力がつく。
であろうか。
また、サッカーは遊びなのだから楽しめ、というあまりにも単純化された言説も内実を伴わないため、「ただの言葉」としてしか受け止められていない。
サッカーに関わる大人の都合、興味、関心によって論じられているだけ、というある種の「暴力性」にうんざりするときがある。
生の体験としてのサッカー
距離にすれば30mが「近く」感じられ、シュートを打つ前に入ることが確信でき、ミートの瞬間ボールは柔らかく足と「一体」になっている。
自分に向かってくるボールの「軌道」が見え、迎えに行くように勝手に足が出て自分のものになるボール。
ペナ隅で、背後からオーバーラップする味方を見てもいないのに感じ、走り抜ける味方にジャストなタイミングでパスを出せたときの一体感。
なぜか「あいつ」と目が合い、一つの糸で結ばれたように意思決定を超えてパスをだす。
自分だけが知っている「罠」に、見事に相手が引っ掛かってくれた瞬間。
飛び込んでくる相手がスローに見え、確かめるようにダブルタッチで相手を抜く瞬間。
このようなプレー体験と距離を取り説明することは難しく、多くのサッカー選手は「気持ちいい」と表現したりする。
このような瞬間、サッカー選手は他者と、ボールと、世界と一体となる感覚を知り、この体験こそが「生」の充実であり、自己充足・受容に繋がる。
それは同時に、他者や世界に「開かれる」ということでもある。
サッカーの楽しさ素晴らしさ
上手くなるため、勝つため、プロになるため、誰よりも努力する。
サッカーは答えがなく判断の連続だから生きる力が身につく。
サッカーを通して協調性が身につく。
週間・月間・年間スケジュールを自分たちで組み立て自主性を養う。
そのようなことは、サッカーやスポーツに伴う価値の副産物でしかない。
そのようなことに重きを置きすぎるから際限がきかず、弊害となる。
そして、サッカーというスポーツが窮屈になる。
サッカーのサッカーとしての楽しさ。
サッカーのスポーツとしての素晴らしさ。
は目的-手段関係の外にあると言っても良い。
我々は、あまりにも「競技的視点」「教育的視点」からスポーツを捉えすぎており「遊び」すらもそれに利用したがる。
何か、新規的なことを言っているようで、結局は同じ場所でぐるぐると回っているだけ。
それは、自明性に対して無自覚すぎるということなのだ。
もちろんだからこそ「自明性」なのであり、それが「大人」であるといっても良いが、「子ども」にとっての良き大人では間違いなくない。
指導者は学び続けなければならない。
では学びとは何だろう。
間違いなく、情報を頭に入れることではなく、情報を伝えることが教えることではない。
大人が「おとな」を見直すことこそが必要なのだ。
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執筆者
Football Coaching Laboratory代表 髙田有人
選手時代にはブラジルでの国際大会や、数多くの全国大会を経験。高校卒業と同時に指導者活動をスタートし、地域のジュニア年代で約10年の指導経験がある。ドイツへの短期留学やサッカーの枠を超えて、教育学、スポーツ思想・哲学、身体論など様々な分野も学び、全人格的な育成の可能性と実践、そのための指導者の養成をテーマとし活動している。