名コーチは必ずしも名プレイヤーに非ず 「指導者主体」という問題について

名選手必ずしも名監督に非ず、という格言がある。

これは、一流の選手になればなるほど、自分がどのような「知」に基づきプレーしているかを説明できないため、素晴らしい技能や戦術観を持っていても、選手にそれを伝えることができず、むしろ、なぜできないかの理解に苦しむ例えと言える。

では逆に、名コーチ必ずしも名プレイヤーに非ず、という言葉があるとしたら、どのような意味になるのだろうか。

これは、どのようにプレーすればよいか、という「知」を持ち合わせていても、実際その通りにプレーすることができない例えとして考えることができるだろう。

昨今、ジュニア年代において「判断力」という言葉が注目されてきた。

ここでいう判断力とは、プレー遂行に先立つ、頭の中で言葉として考える「思考」の意味であり、今どういう状況か、どのようなプレーをすべきか、という二つの意味において使用されている。

つまり、サッカーにおける判断力は「知的活動」として考えられていて、その内容の整理、速さを高めることが、プレーの成否を決定づける「判断力養成」に繋がると考えられている。

そのため、例えば

「今どんな状況か後ろを見て」→「相手がボールを奪いに来ている」→「ということは?」→「ボール取られるかも」→「じゃあどうしたらいい?」→「ボール受ける前に首を振る!」→「そうだね、そうしたらキープするなり、リターンパスできるよね?」→「うん!」

というように、どのような状況か、どのようなプレーをすべきか、の知的な理解を深めるための、フリーズコーチングやミーティングが頻繁になされ、案外、どういう状況か、何をすべきか、を理解している知的なジュニア年代の選手は多いように感じる。

ただ、「わかる」のに「できない」選手が多く存在することもまた事実であり、そこから目を背けるべきではない。

「わかる」のに「できない」、「伝えた」のに「できない」問題を、選手の意識や努力不足の問題として片づけるべきではない。

「伝えた」のに「できない」、「わかっている」のに「できない」選手を見て、「なぜこんなことができない」と首を傾げる指導者は少なくならなければならない。

そもそも、サッカーは頭や言葉でやるものではないし、体を使って頭でプレーしている訳ではない。

スポーツ実践は、「知的な理解」がそのまま「実践に活きる」という単純な図式では成り立っていない。

という前提を、指導者は忘れやすい。

指導者の多くは、実際の行動を伴わず物事を考える傾向があるため、その考えは、現実に縛られることなく、自由であり、限界がないのだ。

もし、頭でサッカーをしているのであれば、コーチは皆名プレイヤーになってしまう。

知的な理解が実践に活きるのであれば、多くの選手が「もっとできる」ようになっているはずだ。

これは、「学習知」と「身体知」、「理論知」と「実践知」などの問題として、多くの運動指導の研究で問題にされていることでもある。

「わかる」と「できる」は全く別物であり、「わかる知」と「できる知」の獲得プロセスも全く違うものとして考えられていて、指導者は、「何を教えるか」よりも「どのように教えるか」に焦点を当てなければならない。

「わかる」と「できる」

「理論」と「実践」

「指導者」と「選手」

の距離が、益々離れていかないように注意が必要だし、サッカーの知の所有者が指導者になり、育成現場の主体が指導者になってはならない。

繰り返しになるが、「何を教えるか」よりも大事なのは、「どのように教えるか」であり、そもそも指導者には「何ができるのか」という部分を明確にすることが先決だ。

指導者が「できること/できないこと」を明確にしておかなければ、指導者主体という問題は、永遠に解決されないように感じる。

 

※こちらも合わせて読んで頂けると、理解が深まります。

「育成と勝敗のどちらが大事であるか」という二項対立の図式から考える
https://fcl-education.com/raising/sportsmanship/junior-football/

指導者が自身を育成することが育成の始まり
https://fcl-education.com/raising/sportsmanship/sidousha-jishinwo-ikusei-ikuseinohajimari/

 

執筆者
Football Coaching Laboratory

 

 

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