サッカー情報

2020.05.22

教えない指導は指導と言えるのか 指導者という存在と指導という営みについて

教えない指導が良い指導だとされる。元々、選手は学ぶ力を持っているのだから、指導者がその邪魔さえしなければ自ら成長していく。むしろ、指導者が教えようとすればするほど選手は何も学ばなくなってしまうのだそうだ。

学び手中心の考え方

確かに、指導を「情報の伝達」「知識の受け渡し」と考えている限り、指導や教育は他者への働きかけであり、教え手の意図通りに伝わるか、そもそも伝わったか、教えた内容を組織化できるかどうかは教え手がコントロールすることはできず、他者の側に委ねられているという点で不確実であるし、そもそも、学び手は教え手がいなくても学ぶことができ、教え手は学び手がいなければ教えることもできない、という非対称な関係性からも、指導という行為は、かなり不安定な基盤に根差していることがわかる。

特に、運動と言語の疎遠性という観点からも、サッカーは頭や言葉でやるものではないし、体を使って頭でプレーしている訳ではない。スポーツ実践は「知的な理解」がそのまま「実践に活きる」という単純な図式では成り立っていない。

もし、頭でサッカーをしているのであれば、コーチは皆名プレイヤーになってしまうし、知的な理解が実践に活きるのであれば、多くの選手が「もっとできる」ようになっており「選手を上手くする」という永遠のテーマはとっくに解決されている。

このような前提に無自覚で、選手の成長は指導者次第、というアイデンティティの暴走が指導者中心のスポーツ空間(勝利至上主義・育成至上主義・進路至上主義)を作り出し、なぜスポーツをするのか、なんのためのスポーツか、といった選手にとっての意味や価値が蔑ろにされているのであれば、教えない指導がクローズアップされることも、わからなくもない。

ただ、教えない指導で学び手の学ぶ力に任せるのであれば、指導者の存在意義とは何だろうか。

トレーニングプログラムを用意し、安全管理やスケジュール管理をするだけでの存在なのだろうか。むしろ、トレーニングプログラムさえ選手達で作ることが推奨され、スケジュールの調整までもが選手の「学び」になるということになれば、指導者の存在意義は「安全管理の監督者」しかなくなってしまうのではないだろうか。

指導者という権威

江戸時代における「手習い塾」の入塾は、師匠の弟子になることを意味した。

どの師匠を選ぶかは、師匠の人格や技能、などによって考慮され、学び手が教え手を選んだそうだ。

儒学者の貝原益軒は、師匠への憧れや信頼感こそ教育と学習の活動を成立させる重要な条件だと捉えている。なぜなら、信頼できる、尊敬できる人物かつ異様な存在であるからこそ、感染し、模倣や探索という学習の契機を生み出すからだ。

つまり、指導者という存在が「権威的な存在」であるからこそ学び手の「学ぶ構え」を作り出す。

権威とは、辞書的な意味では強制的に同意や服従させる能力・関係である「権力」とは別で、自発的に同意・服従を促すような能力や関係のことを指す。

権威はそれ自体に正統性を持ち、外的なものに依存しない。つまり、立場・地位によって指導者が権威化されることはあり得ない。

何を教えるか、どのように教えるか、の前に、教え手にとって自分がどのような存在であるか、を考える視点は、多くの指導者に欠如している。

指導というコミュニケーションと教えない指導

教える-教えない問題を考える際には、指導をする主体は指導者ではなく、指導者と選手を結ぶ相互行為としてのコミュニケーションシステムである、という関係的な視点を持つことが重要だ。

つまり、教える教えない、褒める褒めない、などの伝達方法が大事なのではなく「コミュニケーションが機能しているか」という視点こそが重要なのであり、そのような視点を導入すれば、何が良くて何が悪いかを事前に決めることはできない。極論的に言えば、教えない指導が何かの情報として伝わっているのであれば良いが、伝わっていないのであれば、なんの意味もないのだ。

また、教えるという関わりの喪失は、共同的な営みの契機を失くすことに繋がりかねず、共同的な営みは他の人格を前提とするため、自己中心的な考えを退け、価値観の多様性に繋がる。異他との交流、世代間交流、という事を考えてみても、大人は大人として選手には接すればよく、友達感覚で迎合したり、子ども目線という匿名的かつ抽象的な言葉に惑わされる必要もない。そして、主体性や自由が、個人の範疇で捉えられているのであれば、自己中心的な個人を育てていることに他ならない。

指導者が実践し教える

スポーツ指導者に求められることの最も重要な事に、選手の「できない」を「できる」にするということが挙げられる。

選手を「できる」ようにするためには、知識を与えれば良い訳ではない。なぜなら、運動とは「自己運動」であり、自身の運動世界・時空間で行われ、自身の運動感覚-運動意識を基に「自己運動」を形成していかなければならないからだ。スポーツにおける「知」は外から情報として頭に詰め込むのではなく、内から身体化する必要があり感覚印象が主題になる。

それを踏まえ、例えば逆サイドが見えない選手にコーチングをするのであれば、どのような瞬間に逆サイドが見えたか、もしくは見えなかった、そしてどのようにできるようになったか、という「できない→できる」の経験を、指導者自身が持つ必要がある。それを基に、第三者的な視点で形式的な言葉を伝えるのではなくて、選手がなぜできないのか、何を意識しているか、移入し、共感し、指導をする。これはまさに、言うは易し行うは難しである。

単に、こういう時はここを見て、こういう状況ではこう判断して、そうすれば逆サイドを見ることができると言われても、「それはわかるのですが、できないのです」という所が、実践者としての選手の本音であることは間違いない。そのようなアドバイスをするのであれば、あなたでなくとも良く、SNS上にたくさんいる、技術・戦術クラスタの方々に任せた方が良いのではないだろうか。

指導者になったから指導者ではない

指導者は「指導者という肩書」をもらった瞬間になるものなのだろうか。

良い指導者は海外最先端や技術や戦術に関する知識を持つ者を指すのか。

努力することが大事という指導者は、努力をしているのだろうか。

協調性が大事だという指導者は、協調性があるのだろうか。

教えないのであれば、指導者の存在意義とは何だろうか。

指導者はサッカーをし、「できない」を「できる」ようにしているだろうか。

次から次へと新しい情報に飛びつくのではなく、教えるとは?運動とは?などの素朴な疑問を掘り下げていくことが、重要なのではないだろうか。

 

※こちらも合わせてご覧ください。

名コーチは必ずしも名プレイヤーに非ず 「指導者主体」という問題について
https://fcl-education.com/raising/independence-coaching/non-not-a-name-to-the-director-name-player/

「育成と勝敗のどちらが大事であるか」という二項対立の図式から考える
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指導者が自身を育成することが育成の始まり
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サッカーは楽しい、素晴らしい そう言えるための大人の学び
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執筆者

Football Coaching Laboratory代表 髙田有人

選手時代にはブラジルでの国際大会や、数多くの全国大会を経験。高校卒業と同時に指導者活動をスタートし、地域のジュニア年代で約10年の指導経験がある。指導者としてドイツへの短期留学やサッカーの枠を超えて、教育学、スポーツ思想・哲学、身体論など様々な分野に精通しており、全人格的な育成の可能性と実践、そのための指導者の養成と、好きなスポーツを見つける、多様なスポーツを体験できる場の創出をテーマとし、情報サイトFootball Coaching Laboratoryの運営、勉強会、トークショーの開催、総合スポーツスクールの企画・運営をしている。

 

 

 

 

 

 

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