サッカーは、喜ぶためにやってるんだぜ

最近、自分は自己矛盾に悩んでいる。サッカーの指導において、特に「日本語の特性を利用した指導法」について深く探求し掘り下げていくコラムを他媒体で書いていたり、実際に子ども達への指導現場でも、ひとつのプレーに対して細かく指導することも多い。

でもそのたびに、もう一人の自分が心の中で顔を出す。

そして、こう言ってる。

うるせえよ、と。

もちろん指導者としてサッカーを探求したり研究したり、子ども達へ少しでも良い指導をしたいと思って色々考えて実践することはとても大事だと思うけれど、その反面、サッカーはもっと簡単なものだったじゃないか、いや、もっと楽しいものだったはずじゃないか、誰からも指図されず強制されずに自由に遊べるから、サッカーは楽しいものだったはずじゃないか。

そんな思いをずっと持ったまま、子ども達の前では指導者の顔を演じてしまっているのかもしれない。

サッカーって、本来は遊びのはず。

僕らが子どもの頃は、学校が終わって仲間たちで公園に集まって、暗くなるまで、時には暗くなってからも、ずっとサッカーで「遊んで」た。

そこには当然コーチもいない。戦術がどうの、コンドゥクシオンがどうの、デスマルケがどうの、コントロールオリエンタードがどうの、ペップがどうの… そんな、あれこれ口うるさい大人もいない。

アップもない、集合、挨拶もない。当たり前だよね。だって、遊びなんだから。

アップしなくても肉離れなんてしないし、足も攣らない。

だって、自分の意思で動けてるから。

人は、誰かに指図命令されると背骨が丸まり筋肉が固まるらしい。

そんな状態でやれば、そりゃ怪我も多いよね…

サッカーの本質は…
サッカーの原理原則は…
スペインでは…

なんていう大人が遊びの場に来たら、それこそ「うるせぇよ、帰れよオッサン」だ。

主役は子ども達。

しかし日本のジュニア年代の現場では、そうじゃない人がたくさんいる。

主役は俺だ、優先すべきは大会だ、スケジュールをこなすことだ、1ミリの融通もせず全てルール通りに子ども達をハメていくことだ、それが教育だ…!なんて本気で思ってるんじゃないかと疑いたくなるような大人達に、僕はこれまで散々会ってきた。

もちろんそれは、現在進行形。

昔よりも、ますます酷くなってるんじゃないかという気もしてる。

サッカーを、子どもに返そう。

ユニフォーム。メーカーもロゴもラインも全て揃ってなくたっていいじゃないですか。色がだいたい合ってれば。

インナーの色、そこまで細かく取り締まる必要もないでしょうに。

「ハイ、爪見せて〜」って嬉しそうにチェックしたがる人、ピッピピッピと笛を吹きゲームに流れを止めまくる人、未だに「シャツ入れなさい!」と言ってる人。

うるさいんじゃ。

もっと自由に、もっと柔軟にやらせてあげればいいじゃない。

みんなと一緒に、何かをしなくたっていい。

うちのクラブに所属する、1年生の女の子。

彼女は幼稚園の頃からうちでサッカーをしてくれているのだけれど、サッカーをほぼしてくれない。 笑

ゲームを始めてもすぐに「お茶飲む」と言って返ってきてノンビリしてたり、時には一心不乱に、砂に絵を書いている。

そして時には、グランドに生息する虫を見つけてずーっと虫を研究してる。砂に混ざる貝を、一個一個拾ったりも。

でも彼女、練習を休まずに毎回来るんですよ。

彼女にとってはこの場所に来ること、それ自体が「サッカー」であり、おそらくそれ自体が、今はとても楽しいんだと思う。

僕はそれで、全く構わない。

集中してボールを追い、コーチの言う通りに動いて、みんなと同じ行動をすること。

それを彼女に強制したら、きっと彼女はとうの昔にサッカーを辞めていたと思う。

「ほら、みんなやってるんだから」

これ、言う人多くないですか?

僕は子どもの頃から、これを言う大人が大嫌いだった。

みんながやってるからってなぜ自分もそれをやらなきゃいけないのか。

しかもなぜこの人の言う通りに動かないといけないんだと、いつも、ひねくれてそう思ってた。

今はサッカーをしていなくても、サッカーをしてる場所が好きで来る。

これで全然いいじゃないかと心から思えているうちは、自分もまだまだ大丈夫かもしれない。

言い方は悪いが、彼女に対して僕がどういう思いになりどういう言動をしていくかはリトマス試験紙のようなもので、もし彼女に対し「みんなもやってるでしょ、ほら!サッカーして!」なんて手を引っ張るようなことを今後もししてしまったとしたら、その時僕は、コーチとして失格になってしまうのだろう。

数年前、園児の子で、サッカーの時間になってもずっとその子だけサッカーをせず、楽しそうにすべり台で遊んでる子がいた。

その子に対し僕がつい「そろそろサッカーしようぜー」と言った時、すべり台を嬉しそうに滑り降りながら、その子がこう言った。

「今してるとこー!」

その子、今は4年生。4年チームのスーパーエースです。

あの時、僕が「みんなもやってるだろ!」と彼をすべり台から強引に下ろしていたら。

おそらく彼は今、サッカーを続けていなかったと思う。

うちの園児達は、サッカーは習い事じゃなくて、本気で遊びだと信じてる。

その証拠に、幼稚園が終われば自分でたくさんの重い荷物を持ち(引きずりながら)グランドに出てきて、自分で着替え、用意をし、そして好き勝手にボールで遊び始める。

そのうち誰かれともなくビブスを配り始めてチーム分けをし、そして、自分達でゲームを始める。

彼らはサッカーを教わりに来ているのではなく、サッカーを「し」に来てる。

この違いは、とてつもなく大きいと思うんですよね。

そして彼らにとってはこれこそがサッカー。

幸か不幸か生まれて初めて入ったクラブがこんな指導方針だから、きっと彼らはこれからも「サッカーって、自分でやるもの、自分達でやるもの」だと信じ込んでサッカーを続けてくれるはずだ。

僕が変心して、昔嫌いだった大人のようにおかしくならない限りは。

僕のコーチ人生は、それこそ園児〜高校生まで様々なカテゴリーに携わってきたのだけれど、時折、大事な局面で「そもそも、なんでサッカー始めたか覚えてる?」と、よく聞いてきた。

「あ、サッカーって楽しいな」って思ったからじゃない?と。

サッカークラブに初めて体験で来た時。部活の仮入部期間に、初めて参加しに来た時。

「楽しそうだな、楽しいな」って思わなかったら、絶対サッカーやろうとは思わないよね、と。

で、サッカーを始めた後も、なんでこうして続けてられるのか。

「あ、こういうことが出来た、嬉しい、もっとこうやりたい!」
「この仲間達となら、楽しくやれそう」
「ゴールを決めてネットを揺らす快感を知ってしまったから」

とか、「何か嬉しいことがあったから続けてられるんじゃないの?」と、選手達にはよく言ってきた。

これを言う時は、たいてい選手達に迷いが見えてる時とか、うまくいってない時。

「原点を思い出してくれ、サッカーは誰から強制されるものでもない。嬉しいから、喜びたいからやってるんじゃないか」と。

一番大事なのは戦術でも技術でもない。嬉しさを積み重ねることだ。

いや、戦術も技術も大事だけどさ、それよりも大事なのは、自分なりの喜びを見つけることだったり、喜びを仲間と共有することじゃないですか。

大人達から受ける【強制と矯正】が、子ども達をサッカーから遠ざける。

誰でも出来て、誰とでも出来て、自由を実感できて、本気で遊べるから、サッカーはきっと楽しい。

『サッカーは、喜ぶためにやってるんだぜ』

コーチを続けていく限り、僕はこの言葉をずっと言い続けていくと思う。

 

※こちらも合わせてご覧ください。

戦術を語る前に、指導者が目を向け考えるべきこと
https://fcl-education.com/raising/sportsmanship/coach/

 

執筆者
久保田大介

LOBØS FOOTBALL CLUB(ロボスフットボールクラブ)代表。

「勇気、アドリブ、インテリジェンスと少しのユーモア」をコンセプトに指導しながら「サッカーを通じた子ども達の居場所づくり」を掲げ、クラブを運営している。様々な媒体で、育成に関連したコラムの執筆もしている。

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