スポーツ教育を謳う人に欠けている視点 スポーツルールとスポーツの面白さ

スポーツは教育になるのだろうか、と思うことがある。教える側はそう思っていても、実践する側はそのように思っているのだろうか、と自身の経験や指導の現場に立っていて思うことが多々ある。ただ逆に、スポーツは教育になるのでないか、と直感的に感じることもある。

スポーツルールとスポーツの面白さ

スポーツルール学の立場に立つと、スポーツルールの機能は、平等性の担保や傷害事故の防止に加えて「面白さの保証」が挙げられる。

例えば、サッカーにはオフサイドというルールがあるのだが、このルールはゴールから選手を遠ざけるルールである。インプレーがキックインではなくスローインであるというルールは、どのエリアからもゴールに到達できることを防ぎたいルールであり、何かと話題にあがる育成年代におけるロングスロー問題を考える一助になる。

手ではなく、足でボールをゴールに運ぶというサッカーの特性からもわかるように、サッカーは大量得点を前提とせず、ゴールまでの過程の攻防に面白さを見出しているスポーツと考えられる。過程における困難さこそが、ゴールに対して歓喜や失望という感情を湧きあがらせ、面白さとなるのだ。

ルール機能の中核はスポーツの面白さの保証である。社会生活を営むための道徳的・倫理的態度に還元しすぎる思考は、スポーツを窮屈にする。

スポーツというゲームの論理とスポーツの倫理

スポーツは遊びやゲームの要素を内包していると言われる。

遊びには真剣さが求められる。遊びは遊ぼうと意思する者の参加が不可欠である。遊ぼうとする意志を持つ者が集まらなければ、遊びは成立しない。つまり真剣ではない者が遊びに参加すれば、遊びは壊されてしまう。ゲームは勝敗を競い合う組織化された遊びである。

勝つための徹底さ、負けないための徹底さは、勝つか負けるかのシーソーゲームをより過熱させ、極の移動は人を熱中させ、高揚させる。そのスリリングさが、競技としてのスポーツの楽しみの一つである。

倒れている相手に手を差し伸べる前に、自分のポジションに戻ることの方が、勝敗を競い合うことについては真剣ではないだろうか。相手のボールを取りに行き渡してしまったら、素早いリスタートに繋がり、自チームのピンチを招くことにならないだろうか。

勝ち負けに徹底する、騙し合う、それすらもスポーツの楽しみとするのは、非道徳的なのだろうか。相手に足がぶつかり倒れてしまったら、審判が笛を吹かなくても相手にボールを渡すべきなのか。審判はなぜ笛を吹かずにプレーオンをするのか。スポーツ空間で手を差し伸べない選手は日常生活で道端で転んでいる人間に手を差し伸べないのだろうか。

そもそも、スポーツの中での行動と日常生活での行動は、別々の原理に基づく。競技スポーツとスポーツも別々の原理に基づく。スポーツにおけるフェアとは何だろうか。

実践者は勝ちたい負けたくない、という動機を持ち、見る側、利用する側は、様々な道徳的・倫理的態度を求める。

スポーツをする側がスポーツに何を求めているか、スポーツを利用する側がスポーツに何を求めているかは、全く違う。

スポーツマンシップという社会構想

スポーツマンシップは、19世期中葉にイギリスで近代国家形成のための教育的なイデオロギーとして普及した。

ダーウィニズム的進歩主義による自由競争や、ベンサム的な功利的社会、個人化思想、古代ギリシアへの回顧などの時流の中で、運動競技を礼賛するアスレティシズム、利己心や自由競争のアンチテーゼとしての協同思想、集団の組織論・制度論としてのチームスピリット、徳育主義としてのマンリネス、指導者としての資質(ノブレス・オブリージュ)などの概念がスポーツに付加され、スポーツはスポーツをすること自体が「徳行」となり得るというイメージを帯びた。

スポーツマンシップは人材養成のツールとしてスポーツを利用する概念に他ならない。それは、スポーツ自体の「楽しさ」を逸脱し、目的に向けられた使用価値としての利用であり、社会構想をする側からのスポーツに対する期待であり思惑である。

スポーツマンシップの概念を生み出した当時の人々は、どのような社会が問題で、なぜそのような問題が起きたのか、これからどのような社会であるべきか、その方法、をスポーツに託した。スポーツは教育になる、という人々は、社会構想としてスポーツを語らなくてはならない。

現代の社会がどのような社会で、なぜそのような問題が起き、これからどのような社会であるべきで、そのためにスポーツはどのような価値があり、どのような部分が教育になるうるか。それ抜きに、主体性だ自律性だ協調性だ努力だ、スポーツは教育になる、と綺麗な言葉だけを並べても意味はないのだ。

生涯スポーツとスポーツ教育

古代ギリシアにおいては、スポーツ(というよりは運動)は人を徳に結び付け高尚にすることに結びついていた。この場合のスポーツは勝敗のためのスポーツ活動を指さない。

プラトンもスポーツに無条件的に教育的機能が備わっているわけではなく、実践者が善き生、徳を目指す意思によってスポーツは初めてそのような活動になると考えていた。古代ギリシアのスポーツに勤しむ人々は、労働から解放された人々であった。

子供たちのスポーツ活動を見て、良き人間になるためにスポーツを行っている子供はいるだろうか、いや、大人もいるのだろうか。

アスリートには人格的に素晴らしい人物が多いと素朴に信じられていたりもするが、スポーツをしていなくても素晴らしい人はいるし、逆にアスリートであってそうでない人もいるだろう。結局のところ「そういう人もいるし、そうでない人もいる」程度のことでしかない。

優れた人格になるためにスポーツを行っている、という選手は一人もいないだろう。選手は楽しみたい、勝ちたい、上手くなりたい、という純粋な思いでスポーツに取り組んでいる。

スポーツを遊び尽くし勝ち負けのスポーツを追及し、そのような過程を経て自分にとってのスポーツは何か、という距離が取れる。つまり、生涯スポーツこそがスポーツ教育の可能性だ。

スポーツは教育になるという実感を持ち、そのような意思を持った人々によって取り組まれない限り、真の意味でのスポーツ教育は成り立たない。

スポーツを次世代へ繋いでいく

指導者は、幾つのタイトルを取るか、強いクラブへ何名選手を輩出できるかなどへの関心、「どうすればチームが強くなるか」「どうすれば選手は上手くなるか」という情報にしか興味がないが、我々は次の世代にスポーツを繋いでいく存在であることも忘れてはならない。

スポーツ環境はスポーツを語り、受け取り、実践する各々が作り出しているという自覚を持ち、真剣にスポーツについて考える人が増えなければならない。

真剣にスポーツを考えるということは、スポーツという文化について思考を巡らせることだ。

自分が楽しければ、自分が凄ければ、自分のチームが良ければ、自分のスポーツだけ、という自己中心性から脱却し、広く深くスポーツについての言葉を重ねることが重要だ。

 

※こちらもご覧ください。

「育成と勝敗のどちらが大事であるか」という二項対立の図式を超えて
https://fcl-education.com/raising/sportsmanship/junior-football/

教えない指導は指導と言えるのか 指導者という存在と指導という営みについて
https://fcl-education.com/raising/sportsmanship/coach-not-teach/

サッカーはサッカーをしなければ上手くならない サッカーはサッカーだけをしていても上手くならない
https://fcl-education.com/raising/sportsmanship/soccer-sports/

育成年代のスポーツは遊びか、競技か、教育か スポーツと共に歩むために
https://fcl-education.com/raising/sportsmanship/sports-competition-play-education/

 

執筆者

Football Coaching Laboratory代表 髙田有人

選手時代にはブラジルでの国際大会や、数多くの全国大会を経験。高校卒業と同時に指導者活動をスタートし、地域のジュニア年代で約10年の指導経験がある。指導者としてドイツへの短期留学やサッカーの枠を超えて、教育学、スポーツ思想・哲学、身体論など様々な分野に精通しており、全人格的な育成の可能性と実践、そのための指導者の養成と、好きなスポーツを見つける、多様なスポーツを体験できる場の創出をテーマとし、情報サイトFootball Coaching Laboratoryの運営、勉強会、トークショーの開催、マルチ型スポーツアカデミーAC VIRDSの企画・運営をしている。

 

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